弱肉強食と適者生存

このテーマは以前にビジネス関連テーマのブログを書いていた時も何度か書いていることなんですけど、水槽っていう小さな生態系を扱う上でも無関係ではないテーマ...水槽の眺め方に関わりそうだと思うので、改めてまた書いてみます。

 

世間には、「この世界は弱肉強食だ」って思っている人が大勢いますよね。それを間違いだと言うつもりはありませんが、弱肉強食...より強いものが勝って弱いものが淘汰されていくという見方では、淘汰というものの本質は捉えられないですよね。

 

弱肉強食というのは、極めて限定的な時間・空間の中では成立する見方ですけど、ほんのちょっと視野を広げただけで、殆ど意味が無い...なんの役にも立たないとさえ言えるような見方です。

 

何故かと言うと、何が強いか・何が弱いかというのは、環境が規定することで、その環境は常に変動し続けるものだからです。

 

例えば、スキーのジャンプ競技でスキーの板のサイズが身長+◯センチまでって決まっているとしますよね。こういう規定であれば、身長がある程度以上高い人にとっては、そうでない人よりも不利になりますよね。

では、規定がある時に突然 身長の1◯◯%までという規定に変わったら...今度は身長が低い人のほうが不利になる可能性があります。

 

ここでいう、スキー板のサイズを決めているルールが環境です。ルール変更が環境の変化で、環境の変化によって誰がより強いかは変わってしまいます。

 

生き物を例にするなら、例えば動物にとってはけっこうキツイ毒が含まれるユーカリの葉を独占して食べれるコアラは、ユーカリの森のなかでは強者です。でも単食になってしまっているコアラは、もしユーカリばかりを枯らしてしまうようなウィルスが蔓延ってユーカリが激減したら、いきなり弱者に転落します。

 

圧倒的な強さを持った写真フィルムのメーカーも、世の中がデジタルフォトの時代になってしまえば、急速にその強さを失っていきます。

 

そんな環境変化は常に様々なレベルで起き続けているわけです。


人類の歴史を振り返ったって、感染症への抵抗力が最も大事だった時代、力が大事だった時代、暑さへの強さが、寒さへの強さが、的を射抜く空間把握力が、忍耐強さが、アタマの良さが... と時代毎に優秀さの基準は変わっていきます。

 

水草水槽だってそうですよね。真新しいソイルの効果が効いている時と陽イオン交換効果が切れ始めた頃、ソイルの栄養分が底をついてくる頃、ソイルが団粒構造を失ってきた頃...常に優勢な水草は変化してきます。強者が変わるわけです。

 

つまり、物事のごく断片を見れば弱肉強食...より優れたものが勝つ...に見えるけど、本質的には適者生存なんですね。

だって、何について優れているべきかが...その勝ち負け判定基準自体が変わり続けるのだから。

勝ち負け判定の根拠になるルールブックは、変化し続ける環境なんですから。

 

子どもやあまり恵まれていない環境に居る人は、どうしても世界は弱肉強食だと見えてしまいます。

それも当然で、子どもは大人よりも、自分は変わっていくけど周囲はあまり変わっていかない世界に生きているからです。

子どもにとっての1日や1年は、大人よりずっと長いですからね。

その上、自分の身体・知能も成長し続けるのだから、周囲が止まって見えて当然です。そういう中では、より単純な世界の見方...弱肉強食...強いものは常に強い...お父さんや教師は常に強い...、でもボクはどんどん成長している...もっともっと強くなれば良いのだ!って考えておいて間違いないわけですよ。間違いないというかむしろ正しい。

 

あまり恵まれていない人にとってはずっと弱肉強食として世界が見えるのもしかたがないことです。

恵まれていないということは余裕がないということで、スグ目先の成果がとても...時には決定的に重要だからです。

明日のご飯をどうにかしなきゃ!って時に、世界は適者生存だから...なんて考えていたら負け犬になるしかありません。

物事を短期的に捉える必要があるわけです。

ごく短期的に捉えるなら、世界は常に弱肉強食で正解です。

いま、目の前にある現状に対して全力で最適化しないといけない。

 

社会に出たての若者もそうですよね。

そもそも仕事の枠組み自体(仕事の環境・評価基準)をいじれるような立場も経験に基づいた能力も無いわけだし、目の前に示される課題は比較的シンプルなもの...良し悪しの評価基準もシンプルなものなのだから、全力でそれをより良く達成するしか無い。

そうしてひとまず自分は出来ます!と証明して居場所をつくっていくしかない。これは弱肉強食の世界です。

 

でも、問題はその後です。

少しは仕事ができるようになってきて、部下も持つようになってきたら、如何に長期的にやっていくのかを考えないといけないですよね。

立場毎に起きる日々の小さな変化に適応していかないといけない。

やり方を柔軟に変えていかないといけない。

時には、無駄と思えることも将来への保険として見ておかないといけない。遊び歩いてばっかりで全然生産しないけど、社内外で意外なコネクションを次々につくってくる部下なんてのも、もしかしたらって保険で大事にしておいても良いかもしれない。

弱肉強食発想なら、こういう部下は、遊び歩くのをやめさせて無理やり働かせるか、切っちゃうしかないんですけどね。

 

そうやって余裕が出来て、立場があがればあがっただけ、適者生存発想に切り替えていかないといけない。

 

話をもどして、もし世界が本当に弱肉強食だとします。

そういう世界なら、どんどん一方通行で淘汰が起きるので、世界はおそろしくシンプルになっているはずですよね。多様性が極めて低い世界になるはずです。

ところが現実には、放っておけば世界は常に多様性をつくり続けます。複雑であり続けます。ちょっとしたニッチの部分重複が頻繁に起きます。

生物には、多様性という保険が必要だからです。...じゃなきゃとっくに環境変化で滅んでいます。

 

既に「強い者」というのは、見方を変えるとその時の環境に最適化...過剰適応したものであって、だからこそ環境変化には脆いものだからです。

 

だいたい「強い者」のイメージといえば、食物連鎖の頂点に立つ者ってイメージでしょうけど、食物連鎖のピラミッドの頂点に立つということは、それだけ頂点〜底辺までの間に何かあれば最も揺らぎやすい場所ですよね。底辺に近いほうが変化には強い。頂点に近い方がそれだけそれを成立させる条件が多く・複雑になるわけですから、それだけ壊れやすくなって当然です。

ライオンと土壌バクテリアのどっちが環境変化に強い?暑くしてみたら?酸素を薄くしてみたら?食物をいっきに減らしてみたら...って想像してみれば分かることですし、歴史的な生物相の変化がピラミッドの底辺と頂点でどっちのほうがより激しく起きているかって見てみれば分かることです。

 

なぜわざわざオス・メスをつくって、遺伝子を掛け合わせて、いろいろな組み合わせのテストをし続けなければならないのか?

農業園芸の世界のように優秀なものだけ選んでコピーを作り続ければ良いのに?優生学的なアプローチには突き詰めればオス・メスは不要です。

それはもちろん、どんな環境変化が起きて、何が次の時代に成功するか分からないから...保険なんですよね。世代を越えて生き残るには沢山のバリエーションを用意しておく必要があるからです。

何が当たるか分からない。

新規事業の開発と同じです。

10仕掛けて9つ大失敗でもひとつ大当たりなら大成功です。

9つの分は保険です。

ベンチャー投資とかそういうものです。

 

多様な人を受け入れる寛容さと弱者を守ろう・なんとか活かそうとする優しさは無駄ではありません。少し長い時間軸で見れば、そういった優しさこそが強さです。弱者を守ることは保険を掛けることと同じです。...もちろん保険ばっかりかけすぎて明日のご飯さえ食べれないようになったらダメなわけですけど。

そこはバランスです。

 

ということで、ある程度余裕ができたら、弱肉強食の見方は捨てて適者生存視点に切り替えて世界を眺めるようにしましょうって話でした。

水槽とあまり...ほとんど関係なかったですね。

すみません。

 

でも、ほら、よく「コケとの勝ち負け」みたいな見方をしている人っているじゃないですか?

いや勝ち負けじゃないよって。

水槽と人の関係では、人は生態系のプレイヤーではなくて環境をいじれる方の神です。神は勝ち負けなんて言わないですよ。

コケが邪魔だと思ったら、コケに勝つって発想じゃなくて、

コケとニッチを争う水草にとってより有利な環境にしてやる。

そうルールブックを書き換えてやる。

コケを適者の座から落として、水草をより適者にしてやる

って考えたほうが正しいと思いますよ。

でもって、弱者として...いつでもコントロール可能なものとして...位置づけることが出来るなら、別に少しくらい共存してても良いやって割り切る。

 

...ちょっと話の本筋からみたら...ちょっとじゃなくてかなりこじつけでしたね。

オマケに読み返してみたら、なんだか偉そうな感じの語り口でしたね。
許してください。たまには偉そうにもしてみても良いでしょ?
たいしたこと無いヤツが言ってるんだから、そこは生暖かめの大人の余裕で流してみてください。


こんなところまで読んでくれて、ありがとうございます。

 

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